数年前『他人を見下す若者たち』*1という新書が出版され、にわかに話題を呼んだ。2006年2月に初版が発行されたこの本の内容を要約するとメディアの発達、個人主義の発達により自身の実力以上に自分の能力を過大評価する「仮想的有能感」によって、主に現代の若者たちは自分以外の人間を見下し、社会全体のモラルの低下を招いているというものだ。

 案の定というか、この本の評価は(少なくとも消費者レビューを見ている限りは)あまり芳しくない。いかにも年をとったオッサンが言いそうな一般論の焼き直し、客観的とは言いがたい統計データの恣意的な解釈、考察の杜撰さなどなど、手厳しい批判の数々を読んでいると、この本の内容が本当に的を射たものであるということがよくよく実感できる。
 僕の考え。教育学や心理学の専門家でもない一般素人向けに書かれた新書に学問的な厳密さを求めるのは野暮というものだ。特に根拠も示さずに自分の言いたいことを垂れ流す無責任な評論家に比べれば、それなりにデータを呈示しながら自説を組み立てているこの本は新書としては全くの及第点であると思うのだが、どうも賢明な読者たちはそれでは許してくれないらしい。この本の内容が学問的に論証が不十分であるというのはたしかに正論である。しかし学問的厳密さを求めるならそもそも新書なんて読むべきではない。少なくとも明らかな事実誤認や論理破綻が無い限りは寛容な目で読むというのが新書の読み方だと僕は思う。だいたい「〜かもしれない」「〜と思う」といった断定を避ける言葉使いが気に入らないというレビューも多いけど、薄弱な根拠で「〜である」と断言するより僕はよっぽど正直で誠実だと思うのだが。

 ここまで僕がこの本を擁護するかのような書き方をしているのには実は理由がある。もちろん僕もこの本の内容に対して無批判というわけじゃない。ただこの本を読んで激怒し、正しい批判を行って内容を酷評するというのは、あまりにも無様な行為だと思うのだ。この本の表紙にはデカデカとしたフォントで「自分以外はバカの時代」*2と書いてあり、本の帯には2人の男が「オレはやるぜ・・・」「何を?」「何かを」と会話しているマンガが掲載されている。つまりこの著者は明らかに読者を戦略的に挑発しているのである。この本を読み終わった後、おもむろにパソコンを立ち上げamazonのカスタマーレビューに正論を並べ、本の評価に星1つをつける。まさにそういった読者を想定してこの本は書かれている。そうと分かるともう本を批判したくなくなってしまうというのはプライドのある人間にとっては自然なことだと思う。まさに「この本の内容をあーだこーだと批判しているお前、そうお前だよ!お前みたいな人間こそが、まさにこの本の中で描かれている他人を見下す若者の具体例なのさ!」と言われているかのような・・・ この本の著者はきっと性格の悪いやつに違いない。

 閑話休題。この本の論の骨子は「仮想的有能感」という考え方にある。これは著者の造語で簡単に説明すると一般的に言うところの「自意識過剰」とか「自信過剰」みたいなもんである。*3これが潜在的に働き他人を無意識にバカにする傾向が生まれるというのが著者の論旨である。こんなの昔からあるよ!という批判はその通りなのかもしれないが、ともかく昔なんて知らん現代の若者の一人として僕はこの仮説に非常に共感できる(共感できすぎて、そんなの当たり前すぎるよねっていう思いはあるけど)。ところで僕はこの仮想的有能感という言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのが「自己愛性人格障害(Narcissistic Personality Disorder)」という精神疾患である。これは自慢するのが大好きで、とにかくスゴイ人になりたい願望が強くて、自分は限られた人にしか理解できない才能を持っていて、褒められるのが大好きで、世界は自分を中心に回っていると思っていて、自分のために他人を利用して、人に共感するのが苦手で、嫉妬深くて、傲慢な人間。つまりものすごく簡単に説明すると厨ニ病クソヤローのことである。*4

 僕が足りない知識と知性を綜合した限りでは、著者の言う「仮想的有能感」の特徴の多くは「自己愛性人格障害」においても当てはまる。もしそうだとすると、これは単なるモラルの低下といったような問題で済ますことは出来ない。自己愛性人格障害というのは単に自意識過剰な嫌な奴というわけではない。この障害におけるナルシズム(自己愛)というのは、常に自己意識の低さと表裏一体の関係にあるのだ。簡単に言うと「自分は低俗で無価値な人間である」と心の中で思っているからこそ、それを否定するために表面上では「自分は素晴らしい人間である」と叫ばざるを得ないというのがこの疾患の仕組みである。だとすれば仮想的有能感というのは防衛機制なのである。防衛機制というのは自分の心がぶっ壊れないように身を守る手段のことだ。つまり若者は自分の心がぶっ壊れないようにするために、誰かをバカにしなければんらない。もし「他人をバカにすること」を封じられたなら、そのときは別の手段で自分を守る方法を見つけるか、もしくは自殺するかのどちらかを選ばなければいけない*5。ゆえにこの本は決して「他人をバカにするのはよくないので、他人をバカにするのはやめましょう」という、いかにも学校の先生が言いそうな説教本ではない。むしろ、もはやそのような方法でしか自分の心がぶっ壊れないように守ることが出来ない若者たちの悲鳴を代弁したものなのである(少なくとも僕はそういう風に読んだ)。

 さて著者はこのような若者像をさんざん説明した後に、本の最後の方にちょろっとだけ、あまり役に立ちそうにない解決策を呈示している。それは「しつけの回復」と「自尊感情の強化」と「感情の交流できる場の形成」である。おそらくこの本が単なる説教本にすぎないという印象を与える原因の一端はここにあるのだろうが、その前に著者はこの仮想的有能感の呪縛を断ち切るのは「きわめて難しい課題である」と前置きしているように、これらが安易な解決案に過ぎないということは著者自身自覚しているのではなかろうか。だいたいこういう問題というのは、問題提起することは出来ても具体的な解決策を見出すのは非常に難しい。若者論については他にも多くの人が多くの視点から様々な考察をしているが、説得力のある解決策を呈示できているものは非常に少ない。割かれている紙面の薄さから見ても、たぶんこの本の著者は「さんざん言いたい放題言ってきたので、とりあえず申し訳程度にでも解決策っぽいものは書いておかないといけないよね」みたいな使命感から最後のこの安易な解決策を書いたのではないだろうか。それは何も悪いことではない。だって大抵の本がそうなのだもの。そもそもこの本の著者はオッサンである。そして実際にこのような状況の中を生きているのは僕ら若者である。

 そこでこの本を読んだ若者の一人として、僕が解決策とも言えない処世術の一つを呈示することを試みたいと思う。まず「昔はよかった・・・」ので「昔に戻す」という発想はよくない。これは昔がよかったというのが単なる回顧主義に過ぎないという感が否めないし、これだけメディアが発達した時代で時間を巻き戻すことは限りなく困難である。仮に出来たとしても時間がかかりすぎる。それから当然「人をバカにするのはよくない」ので「人をバカにするのはやめよう」という道徳的教訓も何の解決にもならない。それが出来ればとっくにやっている。僕らはとりあえず、まず何よりも「今」を生きなければならない。いかに他人をバカにするかという自意識ゲームの中をサバイヴするためにまず必要なのは憎悪を供給する対象、すなわち敵の存在である。しかしここで設定すべき敵は具体的に実在する個人であってはならない。何故なら、具体的に実在する個人というのは憎悪の供給先としては非常に効率が悪いからだ。例えば「アイツはバカだ」と言って具体的な誰かをバカにした場合、もし相手が実はバカではないということが判明した時にこちらは別の対象を選ばなければならなくなる。あるいはさらに細かい粗を探して、さらに相手をバカにすることも出来るが、それを繰り返せば繰り返すほどドツボにハマっていく。なので誰かをバカにするときは「アイツはバカだ」ではなく「アイツらはバカだ」というべきである。その一例が「リア充」である。リア充という世界のどこに存在するかもわからない誰かというのは憎悪を供給するにあたって非常に効率がいい。見えない敵と戦っている限り、その見えない敵は反撃してくることもなければ、いなくなることもないし、それに本当に実在する「誰か」を傷つけることもない。

 実を言うと僕がこんなこと言わなくても、現状はそのようになっているように思える。オタクがいたり、サブカル厨がいたり、リア充がいたり、ギャルがいたり、ヤンキーがいたり、ともかく様々なクラスタに分かれた人々はお互いがお互いの手の届かない場所から相互に罵り合っている。こうすることによって全体としては非常に効率のいい憎悪の供給システムが形成されている。前近代、凶事は妖怪の仕業によるものと考えられていた。何か嫌なことがあると「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」*6ということになっていたのである。嫌なことは妖怪な仕業ということにするというのは昔の人が考えた素晴らしい発想だと思う。「オレは悪くない!悪いのは妖怪だ!」と責任転嫁できる上に、妖怪は実在しないので実在する誰かを傷つけることもないからである。そんな素晴らしいアイデアがあるなら、ここは今一度忘れていたアニミズムを掘り起こして先人の知恵を借りようではないか。匿名の人々による匿名の人々への罵倒は憎悪の供給システムとして非常に効率がいい。もちろんこれは何も根本的な解決策はもたらさない。そのことは肝に銘じておくべきだろう。評論家の内田樹はこのような状況を「呪いの時代」*7と呼んでいる。本当に呪いの時代だと思う。しかし今を生きる人間に必要なのは「解決策」ではなく「処世術」である。自分以外はバカの時代、この地獄のような自意識ゲームの中をサバイヴするための処世術として、僕はこの匿名罵倒システムを考案する。如何だろうか。

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

*1:『他人を見下す若者たち』 速水敏彦  講談社現代新書
 

*2:元ネタは吉岡忍による同名のエッセイ(朝日新聞2003年7月9日夕刊に掲載)
 

*3:もうちょっと本の内容に即した説明をすると、仮想的有能感とは「過去の実績や経験に基づくことなく、他者の能力の能力を低く見積もることによって生じる本物でない有能感(p.118)」というふうに説明されている。つまり「オレはスゴイんだ!根拠はないけどな!」ということである。
 

*4:DSM−IVにおいては自己愛性人格障害は次のように定義されている。

誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1. 自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2. 限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4. 過剰な賞賛を求める。
5. 特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6. 対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8. しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9. 尊大で傲慢な行勤 または態度。
 

*5:別の手段で自分を守る方法にはいろいろある。「リストカットする」とか「ヒキコモリになる」とか「自分探しの旅に出る」とか「創作活動をする」とか「何も考えずに働く」とか諸々。ちなみにこのうち「創作活動をする」みたいな社会的にスゴイとか言われるような方法にシフトすることを「昇華」という。僕は創作活動するのもリストカットするのもどっちも変わらないと思うのだけど。
 

*6:「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」の元ネタは2ちゃんねるなんだけどね
 

*7:『呪いの時代』 内田樹  新潮社