今日、ゼミで「モテ・非モテ問題」を取り扱った後、帰り道に後輩の男の子と2人で同問題についていろいろ話したので、そこで話題に挙がったことについてまとめてみる。


 まず僕は昔から(彼女が出来る前から)一貫して恋愛至上主義について反対しているのだが、その理由として恋愛と資本主義の奇妙な関係が挙げられる。フリーライター堀井憲一郎の著書『若者殺しの時代』*1には、現代日本の恋愛文化は主に80年代に形成されたという内容が著されている。この本の内容を踏まえながら僕の持論を展開すると、80年代の好景気に乗じて恋愛は商品化されてしまった。つまり若者に恋愛をさせると大人たちが儲かるので、どんどん若者に恋愛をさせてお金を使わせようというビジネスモデル*2が誕生し、主に広告代理店の策略によってメディアを通じた「恋愛をしろ!」「恋愛をしないやつはクズだ!」みたいな価値観のプロパガンダが行われていったのである。

 ここで用語の整理を行いたい。今、80年代の好景気に伴って恋愛を商品化するビジネスモデルが生まれ。さらにこれを普及させるために「恋愛をしなければならない」という同調圧力が発揮されたと述べたが、概念上の整理のために恋愛が商品化された状況のことを恋愛資本主義*3、「恋愛をしなければならない」という同調圧力のことを恋愛至上主義と分けて定義する。恋愛資本主義恋愛至上主義は2つ同時に誕生したものであるが、恋愛資本主義とは恋愛を商品化することによって収益を得るビジネスモデルのことを指すのに対し、恋愛至上主義とはこのビジネスモデルを一般的なものに拡大するための思想であるので両者は厳密にはそれぞれ異なった現象である。

 かつて恋愛というのは贅沢品*4であった。恋愛をしたい人間はすればいいが、例え恋愛をしなくても日本には「お見合い」という救済制度があるために結婚することは出来たし、個人の性欲処理に関してはエロ本やAVなど相応のメディアで間に合わすことが出来ていた。しかし恋愛至上主義の敷衍は恋愛を贅沢品から生活必需品に変えてしまった。贅沢品と生活必需品の違いは価格弾力性の違いにある。恋愛が生活必需品になった(=価格弾力性が低下した)ということは価格や所得の変化によって生じる需要の変化量が減少したということである。まず80年代の好景気に伴って恋愛の価格は、それこそバブルのように急騰した。しかし90年のバブル崩壊を経ても恋愛の価格はまだ高い位置に留まったままだった。何故なら恋愛はもはや生活必需品となってしまったから、若者は例えその商品が高かろうと安かろうと値段に関係なく必要となれば買わざるを得なくなったためだ。そのことに胡坐を掻いて消費者から搾取を行い続けていたところに、『電車男』以降のオタクブームに伴った擬似恋愛という非常に低価格の代替財への需要の移行が発生し、結果的に恋愛バブルの崩壊を招いてしまったというのが昨今騒がれている「若者の恋愛離れ」のシナリオなのではないかと僕は考えている。

 さて恋愛バブルは崩壊してしまい、恋愛資本主義自体も破綻してしまったとまでは言わないまでも、恋愛を商品化するビジネスモデルは、もうかつてのような力は失ってしまったように思える。しかし例え恋愛資本主義が衰退しても恋愛至上主義は生き残ったままになっている。むしろ、これが現代社会の抱える病理なのではないかとすら僕は思っている。ここからは先は、些か僕の精神論のような話になるが暫くお付き合い願いたい。今日のゼミの場で、とある人間の発言に「モテるために何かをやるというのは、例え何をやったとしてもとてもダサい」というものがあった。本当にその通りだと思う。僕には「モテるとかモテないとか関係なく、本当に好きで何かに打ち込んでいる人間は、例え対象が何であれ魅力的である」というテーゼがある。*5申し訳ないが何の根拠も示すことが出来ない。言わば僕の恋愛論の公理である。

 例えば今日ゼミの場で挙がった話題の中に「高学歴、高収入の女性は、自分よりもさらに高い学歴や収入の男としか付き合おうとしない」というものがあった。たしかによく耳にする話であるが、これを「収入」や「学歴」というものから、少し軸をズラして考えてみよう。例えば僕はよくゲームセンターに行ってドラムマニア*6をやっている。ドラムマニアのプレイヤーは本当に男性だらけで、女性プレイヤーというものは滅多に見かけることがない。しかしそんな中でも、ごく稀に非常に上手い女性プレイヤーを見かけることがある。僕が「女性でこんなに上手い人がいるのか」と感心しながら眺めていると、大抵そういう女性には彼氏がいて、その彼氏はさらにプレイが上手だったりするという場を過去に何度か見たことがある。ここで重要なのは、まずモテるためにドラムマニアをやる人間はいないということだ。*7たしかに彼らの馴れ初めを知る由はないが、しかしここに何か大きなヒントがあるのではないかと僕は思う。

 結局、「モテるためにはどうすればいいか」という恋愛を軸にした考え方をしている限り、恋愛至上主義、あるいは恋愛資本主義の枠の中から脱出することは出来ない。自分が本当に好きになって何かに打ち込んでいるうちに、付随的に発生してくるものが人間的魅力なのであると仮定したら、この世の中で本当に自分が好きになれるものを見つけることが何よりも大切なことであるということになる。もちろんこれはあくまで理想論である。おそらく現代社会は「モテるためにはどうすればいいか」という打算抜きで、本当に自分が好きになれるものを見つけることが非常に難易度の高いことになってしまった時代なのだと思う。それだけ「恋愛」が強くなり過ぎているのが、恋愛至上主義という現象なのだと思う。だから僕は昔から一貫して恋愛至上主義を打倒することを目標に掲げているのである。よく勘違いされるが、僕は恋愛至上主義を批判しているのであって恋愛を否定しているわけではない(まず僕自身に彼女がいるし)。ただ何でもかんでも恋愛だとかセックスだとかに結び付けて考える人間を見ると、僕はとてもムカつく。無論、単にムカつくというだけで非難しているわけではない。恋愛を最上位概念において自身の行動指針をとっている限りは、モテ・非モテ問題におけるルサンチマンの螺旋から永久に抜け出すことは出来ないし、何よりもこの恋愛至上主義という考え方が現代社会にもたらす病理は確実に存在すると考えているためだ。


追記(2012/5/12 4:30)

 「自分の本当に熱中できるものに必死に打ち込むことは素晴らしい」という言葉は、「人を殺す言葉」だという話を頂いた。たしかにその通りだし、『若者殺しの時代』の中でも似たようなことが書かれていた。今の時代は「自分が本当に熱中できるものを見つける」ことがとてもとても難しい時代なのだと思う。それどころか「自分が本当に熱中できるもの」という言葉自体がある種の「魔法の言葉」のようになっていて、自分はそれを努力して見つけようと探すけど、それによってかえって「自分が本当は何をやりたいのか」との自問自答ループに入ってしまう。「自分が本当に熱中できるものを見つける」ことをネタにしたビジネスモデルの存在すらある*8ことを考えるとこの記事で僕が言っていることは、単に「恋愛」をめぐる問題を、「自分が本当に熱中できるもの」というものに置き換えただけなのかもしれない。猛省。

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

電波男

電波男

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

*1:『若者殺しの時代』 堀井憲一郎 講談社現代新書
 

*2:「やっぱデートの時は高いレストランに行かなきゃねー」とか「大切な恋人には高いプレゼント贈らないとねー」みたいなこと
 

*3:恋愛資本主義とは、本田透が『電波男』(講談社文庫)の中で提唱した概念であり、僕のオリジナルではない
 

*4:厳密には商品ですらなかったので、この比喩は不適切なのだが
 

*5:このテーゼはジェンダー差を考慮していないとの反論があるかもしれない。僕個人としては自分の本当に好きになれものに打ち込んでいる人間というのは、男だろうと女だろうと非常に魅力的に思えるのだが、一般論的に考えるとどうかわからない。ともかくこのテーゼのジェンダー差についてはこの記事の内容に余るものとなるため、今回は考慮しない。
 

*6:「GuiterFreaks & DrumMania」 KONAMI   GuitarFreaks & DrumMania OFFICIAL SITE
 

*7:だってモテる訳ないんだもの・・・ 常識的に考えて・・・
 

*8:これについてはライターの速水健朗の著書『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)が詳しい