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昨日ゼミで百合萌え*1ついて扱った。そこで男性の持つ暴力性に対する嫌悪という話題がちょこっと出てきたので、これについて自分なりの咀嚼を行ってみたい。
フランスのジャーナリストであるエリック・ゼムールは著書『女になりたがる男たち』*2の中で保守的なバックラッシュとは違った形でのユニークなフェミニズム批判(というよりも痛烈な皮肉)を行っている。彼は「歴史の記述はこれひとつとは限らないという仮説」と慎重に前置いた上で、フェミニズムによる女性解放の歴史を「男性視点」のものに転換する。シナリオを要約するとこうである。まず男性にとって自らの誇りと権威を最も奮える機会と言えば戦争であった。しかし第一次世界大戦の惨劇により、もはや男性性を誇示するための機会としての戦争を正当化することは出来なくなった。戦争が正当化されなくなっただけではなく、男たちの特性だと思われていた合理主義や科学的進歩主義を、一部のエリートたちは熱狂的に捨て去った。男たちが齷齪励んで達成する科学的な進歩というのは最終的には戦争に利用されるものであるためだ。男性が自らの力を示すために磨き続けてきた「人を殺す技術」は、もはや男性自身の手に負えるものではなくなってしまった。例えるなら過度な勃起に耐え切れず海綿体組織が破壊され、男性器が不全になってしまうようなものだ。
これに対して大きく分けて2つの方向が見出された。一つはペニスを捨てて女性化すること。もう一つはあくまでペニスにしがみつくことである。後者を選んだ者は全体主義を形成し第二次世界大戦とともに葬られた。めでたくして先進的な国の男性たちは女性化する道を選ぶことになる。ここでゼムール氏が強調しているのは男性が自ら去勢されることを喜んで受け入れたということだ。この傾向を最初はフェミニストたちは喜ばしいものだと考えていた。しかしすぐに彼女たちは気づくことになる。男性による支配によって女性は長い間虐げられてきたとフェミニストたちは語るが、しかし「支配する」ということは同時に「保護する」ということも含意する。仮に男性が女性を性的に搾取していたとして、それによって男性は女性を守らなければならない。本来これは権利と義務の関係に当たる。そもそも女性を守ることが出来るほど力の強い男性でなければ女性を性的に搾取することは出来なかったからである。しかし去勢された男たちは、自らが持っていた権利と同時に義務まで放棄してしまった。
これがゼムール氏の男性解放史観である。この本の中で彼は「股間の重荷からの解放」という面白い言葉を使っている。精神分析において勃起したペニス(=ファルス)とは男性の権力の象徴とされる。これは女性を服従させ支配するものであるが、同時に女性を満足させるためのものである。フロイトの性理論を踏まえるならば、それは母親の「穴を埋める」ための存在なのだ。しかし女性を服従させ支配する権利と同時に女性を満足させる義務すらも男性が手放したとするならば、困ってしまうのは女性の方である。これに対する女性たちの反応はおよそ2種類に分けられるように思う。一つはやはり男性にペニスを求め、昔のような強い男性像を求める傾向。社会学的に言えば家族回帰と呼ばれる現象である。もう一つはもはや男性ではなくもっと別のものに満足を求める傾向。女性同士の結束力を高め、その中で性愛とは別の回路に満足を見出すという方向性だ。しかし僕は女性の抱える問題についてはあまり興味も知識も乏しいので、今回は深追いは避けることにする。
さて、「結局のところフェミニストたちは女性たちを解放するとか叫びながら、実際は自分たちの首を絞めただけなのだプギャーm9(^Д^)」と能天気に叫ぶことが出来れば話は簡単だ。晴れて股間の重荷から解放された男たちは、自分の自由を謳歌しながら幸せに暮らすことが出来るようになりました、めでたし、めでたし。しかしこのような脱ファルス化とも呼べるような傾向は男たちに新たな悩みをもたらした。まず男性がどれだけ脱ファルス化したとして、性欲というものが失われるわけではない。今まで男性の性欲は、ペニスが女性に反応し、行為を行い、解消されるという単純な理屈で説明することが出来ていた。しかしペニスによる正当化が無効化されたときに、男性は性欲の適切な捌け口を見出すことが出来なくなる。本の中の言葉を使えば「旧式の男の身体、本能、細胞がいまだに反応するのに対して、新型の男の脳の方は、自分の行動を言葉にし、意味を与えることができな(p.85)」くなったのである。旧式の身体と新型の脳が解離してしまっているのである。結果、哀れな男性たちは自分の性欲を説明するために嘘をつかざるを得なくなる。
昨日のゼミは百合についてのものだった。百合には男性、女性双方のファンが多いが特に男性においてはエロ描写を嫌悪する者が少なくない。まるで自分には性欲がないかのように振舞い、性的なものに対する過剰な嫌悪感を抱くという症状はフロイトの言うヒステリーの症状とかなり近似したものがある。ここから仮説として立てられるのは自らの性欲、男性的暴力性の象徴でもある勃起に対する忌避がポルノグラフィーに対する嫌悪に転写されているというものだ。一方で同人誌など二次創作の次元では百合を題材にしたポルノグラフィーも少なくないため、ポルノ一般に対する嫌悪感を百合読者全体に一般化できるかどうかについては慎重にならないといけないけれども、少なくともポルノが読みたいならば百合という倒錯的な題材を利用する必然性はない。
僕自身の話をすると、僕は百合エロは大好物で、BLのエロは興味がない(別に読んでも興奮もしないし、嫌悪もしない)が、ヘテロ的なレイプ・ファンタジーには強い嫌悪感を抱くといった種類の人間だ。もし拙い自己分析が許されるなら僕はヘテロ的なレイプ・ファンタジーを見たときに、その中に描かれる男性的暴力性というものに強い同属嫌悪を覚える。これは自らのファルスの否認であると解釈できるが、一方で百合エロを見て素直に興奮できるのは、そこに描かれるポルノに男性的暴力性が存在しないためと言えるだろう。ポルノの中で描かれる男性的暴力性は自分の中に存在する男性的暴力性と想像的に接続される。股間の重荷から解放されたというのは単なる幻想に過ぎない。ヘテロ的なレイプ・ファンタジーを見たときに僕は自分の内側にも醜い男性的暴力性が存在するという事実に否が応にも直面せざるを得なくなるのだ。
嫌悪感を抱くというのは分かりやすい否認の形だ。まるで「自分は男性的暴力性を持っていない純粋で心優しい人間ですよー」と振舞おうとすればこそ、自らの持つ暴力性はより明確に浮き彫りになってくる。そのため脱ファルス化された男性たちは、自らの暴力性を出来るだけ自覚せずに済むような「安全なポルノグラフィー」に逃げ込むこととなる。どれだけ脱ファルス化しようと性欲が失われるわけではないので必ずどこかで折り合いをつけなければならなくなる。あとはその妥協点をどこに設定するかという話である。「百合はOK-百合エロはNG」とするか「百合エロはOK-レイプ・ファンタジーはNG」とするか、あるいは「二次元ポルノはOK-三次元ポルノはNG」とするか、あるいは「ポルノグラフィーはOK、実際のレイプ犯罪はNG」とするか、これはその人それぞれの妥協点の位置の違いにすぎないというのが現時点での僕の考えだ。
- 作者: エリックゼムール,´Eric Zemmour,夏目幸子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/01
- メディア: 新書
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