最近、僕自身の経験や僕の周りにいる人間から話を聞いたりした上でいろいろ思うところがあったので、自身の思考をまとめることも兼ねてこの記事を記そうと思う。

 日本は競争社会と言われる。子供の頃は学校の成績を競い、上位の者は良い大学に進学し、良い企業に就職することが出来る。企業の中でもやはり競争が行われ、その競争に勝ったものはより良い収入に恵まれることになる。生まれた時から競争を行い、競争に勝った者は幸せを手に入れ、敗れた者は倹しい生活を送ることを余儀なくされる。それが競争社会である。このような競争社会は原理上、同一の生活様式の共有という前提が無い限り成立し得ない。全ての人間が競技場に引かれた同じコースの上で徒競争を行うからこそ、初めて互いの優劣を比べることが出来る。競争にはルールが必要で、優劣を測るためのはっきりとした「基準」が不可欠となる。学歴社会の場合、その基準とは「学校の成績」である。もっと言うと「大学入試センター試験の点数」がそれである。もしここに「俺は学校の成績は全然ダメだけども、野球では誰にも負けないよ」という人間がいたら競争は成立しない。全員が同じルールを共有し、同じ価値基準を共有しているからこそ競争というものは成立する。

 一方で近年叫ばれているのは「価値観の多様化」である。価値観の多様化とは、まさに競争を無効化するシステムであると言える。例えば「学校の成績の良い者が勝ち、悪い者は負け」というルールを全員が共有しているからこそ学歴社会は成立するが、ここに「俺は学校の成績は全然ダメだけども、野球では誰にも負けないよ」という人間の存在を認めることが価値観の多様化である。つまり「学校の成績」以外に「野球の腕」というものもまた一つの価値基準として認めようということだ。当然「学校の成績」と「野球の腕」を比べることは出来ないため、ここに競争という運動が生まれることは無い。「学校の成績」が良いものは「学校の成績」で勝負し、「野球の腕」が良いものは「野球の腕」で勝負する。こういった多元的な価値判断を認めることが価値観の多様化という運動である。日本ではある時期から、特定の価値基準に捉われない多様な人材を育てるために価値観の多様化というものが学校教育の現場でも大きく叫ばれるようになり、特に大学の場では推薦入試やAO入試といった形で実践化されるようになった。

 価値観の多様化とは過度な競争社会に対する反省として、よりリベラルで流動的な社会を目指した運動として称揚されるようになった考え方だ。競争社会においては、とにかく自分が他人よりも優位な立場に経つことが「幸せ」を手に入れるための第一条件とされる。これでは他人への思いやりに欠け、隣人を蹴落とし自分だけが幸せを手に入れようとする利己的で薄情な人間が大量に生まれることになるだけでなく、全ての人間に単一の決められたライフプランを強制することになる。実際の人間には学校の成績は芳しくないが、野球が上手い者もいるし、音楽の才能がある者もいるし、話術が得意な者もいる。そういう学校の成績で測れない才能を掬い取ろうというのが、価値観の多様化を前提に設計された「ゆとり教育」の目論見であった。

 価値観の多様化以降、盛んに叫ばるようになった神話がある。「誰にもその人だけの才能がある」というものだ。これは貴方は学校の成績は良くないかもしれないが、スポーツが出来るかもしれない。芸術の才能があるかもしれない。文才があるかもしれない。あるいは何も得意なものが無いかもしれないが、それは貴方が自分の本当の才能を見つけていないためである。貴方にはきっと貴方にピッタリの「何かが」がある。頑張ってそれを見つけなさい。この自分にだけ存在する隠された才能、即ち「個性」という神話を価値観の多様化は齎した。

 一見するとこの考え方はとても素晴らしいもののように見えるかもしれない。学校の成績が良くない者にとって学校の成績で人生が決まってしまうような社会というのは非常に生きづらい。しかし自分にも何か隠された才能が存在すると思えれば、その生きづらさというのは大いに軽減される。しかし自分にとってその「隠された才能(=個性)」がいつまで経っても見つからなければ、そのプレッシャーは恐ろしいほどに膨れ上がると同時に、「いや、自分はまだ本当の自分を見つけられていないだけだ」という自意識はどんどん増幅していく。もし社会が完全な学歴社会であれば、学校の勉強が出来ない自分に諦めをつけることが出来るし、学歴で全てが決まってしまうような社会が悪い!と責任転嫁することも簡単になる。しかし価値観の多様化した社会においては、いつまでも自分の才能を諦めることは出来ないし、その才能を見つけることが出来ない責任は全てが自己が負担することになってしまう。

 ここで僕は「価値観の多様化」という現象を批判したい訳だが、勘違いして欲しくないのは、僕は決して競争社会を礼賛している訳ではないということである。多くの人間は「競争社会」と「価値観の多様化」を二項対立として扱っている。世の中には「競争社会は良くないので、もっと多様な価値観を認めるような社会にしよう」といって学歴社会を批判する者もいるし、一方で「多様な価値観を認めると社会は混乱してしまう、やはり子供たちには幼い頃から競争することを教えるべきだ」といってゆとり教育を批判する者もいる。僕は「価値観の多様化」という思想に対して異議を唱えるが決して後者の立場を取る訳ではない(勿論、前者の立場も取らない)。これらはどちらも「競争社会 vs 価値観の多様化」という二項図式を前提とした論である。しかし僕は「競争社会」と「価値観の多様化」が相反する原理によって動いているものとは考えない。むしろ「価値観の多様化」とは「競争社会」の究極的な完成体であると考える。

 まず、先ほど述べた「価値観の多様化」における論理。「俺は学校の成績は良くないが、他の分野には才能がある。人には得意なことと苦手なことがあるので、自分の得意な分野を伸ばすべきだ」という言い分は、一見して競争を否定しているようでいて、実際は自分の苦手分野は切り捨て、自分の得意分野で相手を負かすことを前提に唱えられている。自分は勉強で人と勝負したら負ける。負けると悔しい。なので勉強以外の分野で他人に勝つことで恨みを晴らす。これはそういう論理なのだ。この論理では、自分の得意分野とは単に自分の「恨みを晴らす」ための道具になる。何か相手よりも自分の方が優れている部分を見つけ、その点において自分を相手よりも優位な立場におく。これは裏を返すと相手の欠点を見つけ、その部分に対し自分の優位性を主張するということである。「あいつは学校の勉強は出来るが、それ以外は何も出来ない」とか「あいつは高収入だが、真面目過ぎて遊びを知らない」という具合である。「自分の苦手なことは置いておき、自分の得意の分野を伸ばす」という考えが、そのまま裏返すと「相手の得意分野には目を瞑り、相手の欠点を槍玉に挙げる」という考えになるというのは皮肉である。

 僕のような高学歴でもない、低学歴でもない、半端な大学に通っている人間の学歴コンプレックスは浅ましい。自分より低学歴の人間を「バカ」と呼び。自分より高学歴の人間を「ガリ勉」と呼ぶような人間は少なくない。うちの大学はまだマシだが、東京の大学に通っている人間と話しているとそう感じることが特に多い*1。このゲームのルールは競争をして優れた者が勝ち、劣った者が負けるという単純なものではない。このゲームはより自分にとって都合のいいルールを設定した者が勝ちというゲームなのだ。自分より低学歴の人間に対しては「学歴」というルールを採用し、自分より高学歴の人間に対しては「遊びを知っている」だとか「オシャレ」だとか「俺の方がイケメン」だとかというルールを採用する。そうやって自分にとって都合のいいルールを設定して相手をバカにすることによって勝者が得られる報酬とは「ささやかな自意識」である。他人をバカにすることによって自意識を満たす、これは自意識ゲームなのである。

 この記事の執筆に至った動機上、あるいは僕自身の抱いているコンプレックスも多分に反映されているためか少々学歴に関する話が多くなったが、勿論ここまでの記述で学歴についての話をしたのはあくまで自意識ゲームの一例に過ぎない。実際は学歴とは全く無関係にこの自意識ゲームは成立している。相手の収入を槍玉に挙げて、自分より低収入の人間は単にバカにし、高収入の人間には「収入はいいかもしれないが、全然クリエイティブじゃないよね」とか言う人々。相手の聴いている音楽を槍玉に挙げて下品で低俗な音楽を聴いていることを罵っている一方で、別の人間に対してそんな音楽を聴いてるなんて上品ぶって何オシャレ気取ってるの?とか言う人々。このようなダブルスタンダードが容易に成立する根底にあるのは「自分は他人よりも優れている」という自意識である。「自分は他人よりも優れている」という前提の上で、「自分は他人よりもどの点がどのように優れているのかを上手くプレゼンテーション出来た人間が勝ち」というのがこのゲームのルールなのである。

 現代社会、若者が就職するためにはこのような自己ブランディング能力が不可欠と就活セミナーなどでは教えられることが多いが、自己ブランディングという行為は他の人間とは違う自分だけが持つ能力、ナンバーワンではなくオンリーワンとしての自分の表現であるように見えて、実際はものすごく他人の存在を意識している。他の人には無い自分だけの才能というのは、それ自体が既に他人との比較を参照している。勿論そんなことを言っていては現代社会を生き残ることは出来ない。そもそも就職することが出来ない。だから僕は世間にこういった考え方の人間が増えることは仕方が無いことだと思う(まず、僕自身が他人との比較をものすごく意識する人間である訳だし)。だから僕がここで批判したいのは「他人をバカにしている個人」ではなく、むしろ「他人をバカにしなければ生きることが出来ないような社会」の方である。俺は悪くない!アイツも悪くない!誰も悪くない!悪いのは社会だ!!

 僕は無責任な執筆者なのでこの問題に対する効果的な解決策などは用意していない。僕が行いたいのはあくまで「問題提起」である。他人を傷つけることによって自意識を満たすような浅ましい人々の存在。その浅ましい感情が僕自身の中にも同じように存在するという事実。そして他人を貶めないと生きていけないという構造。他人をバカにして喜んでいるような人間は、他人をバカにしないと生きることが出来ない可哀相な人間なのだ。それは僕自身もそうだし、これは完全に主観だけども恐らくは現代を生きる多くの人々がその中に含まれるのだと思う。無論、他人をバカにすることによって自意識を満たすという現象が現代社会特有の病であるとは僕は考えない。弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものをたたく構造は古来より階級社会という形で存在し続けてきた。問題はそういった構造を瓦解させることを目標に掲げていた筈のリベラリズムが更に複雑なルサンチマンの擦り付け合い、他人を如何にバカにするかで優劣を競い合う自意識ゲームを生み出してしまったという事実と、当の左派たちがその事実に全く気付いていないということだ。

 みんなが第一に考えているのは自分を正当化することだ。自分自身を正当化することは何も悪いことではない。それをしないとアイデンティティを形成することは出来ない。しかし自分を正当化するためには他人をバカにしないといけないような構造は健全とは言えない。結局決められたレールの上を外れて、自由奔放な生き方をする人間のやりたいことは「決められたレールの上を決められたような生きているつまらない人々」をバカにし、そのようなつまらない人々から羨望の目で見られることである。もちろん決められたレールの上を外れた生き方が悪い訳ではない。そしてレールの上を外れた生き方をしていることを自慢することが悪い訳でもない。悪いのはレールの上を外れた生き方をしていることを、わざわざ自慢しなければいけないような構造である。

 勢いに任せて書き殴ってみたが、この文章が単なる「人のことをバカにしてはいけません」とかいう道徳論だとか「あー、こーゆーやついるよねー、うざいよねー」とかいう他人事として読まれなければ幸いである。

呪いの時代

呪いの時代

*1:こういう書き方をしていること自体が僕自身の学歴コンプレックス(東京コンプレックス?)の顕れであることを考えると尚更根が深い