最近、僕自身の経験や僕の周りにいる人間から話を聞いたりした上でいろいろ思うところがあったので、自身の思考をまとめることも兼ねてこの記事を記そうと思う。

 日本は競争社会と言われる。子供の頃は学校の成績を競い、上位の者は良い大学に進学し、良い企業に就職することが出来る。企業の中でもやはり競争が行われ、その競争に勝ったものはより良い収入に恵まれることになる。生まれた時から競争を行い、競争に勝った者は幸せを手に入れ、敗れた者は倹しい生活を送ることを余儀なくされる。それが競争社会である。このような競争社会は原理上、同一の生活様式の共有という前提が無い限り成立し得ない。全ての人間が競技場に引かれた同じコースの上で徒競争を行うからこそ、初めて互いの優劣を比べることが出来る。競争にはルールが必要で、優劣を測るためのはっきりとした「基準」が不可欠となる。学歴社会の場合、その基準とは「学校の成績」である。もっと言うと「大学入試センター試験の点数」がそれである。もしここに「俺は学校の成績は全然ダメだけども、野球では誰にも負けないよ」という人間がいたら競争は成立しない。全員が同じルールを共有し、同じ価値基準を共有しているからこそ競争というものは成立する。

 一方で近年叫ばれているのは「価値観の多様化」である。価値観の多様化とは、まさに競争を無効化するシステムであると言える。例えば「学校の成績の良い者が勝ち、悪い者は負け」というルールを全員が共有しているからこそ学歴社会は成立するが、ここに「俺は学校の成績は全然ダメだけども、野球では誰にも負けないよ」という人間の存在を認めることが価値観の多様化である。つまり「学校の成績」以外に「野球の腕」というものもまた一つの価値基準として認めようということだ。当然「学校の成績」と「野球の腕」を比べることは出来ないため、ここに競争という運動が生まれることは無い。「学校の成績」が良いものは「学校の成績」で勝負し、「野球の腕」が良いものは「野球の腕」で勝負する。こういった多元的な価値判断を認めることが価値観の多様化という運動である。日本ではある時期から、特定の価値基準に捉われない多様な人材を育てるために価値観の多様化というものが学校教育の現場でも大きく叫ばれるようになり、特に大学の場では推薦入試やAO入試といった形で実践化されるようになった。

 価値観の多様化とは過度な競争社会に対する反省として、よりリベラルで流動的な社会を目指した運動として称揚されるようになった考え方だ。競争社会においては、とにかく自分が他人よりも優位な立場に経つことが「幸せ」を手に入れるための第一条件とされる。これでは他人への思いやりに欠け、隣人を蹴落とし自分だけが幸せを手に入れようとする利己的で薄情な人間が大量に生まれることになるだけでなく、全ての人間に単一の決められたライフプランを強制することになる。実際の人間には学校の成績は芳しくないが、野球が上手い者もいるし、音楽の才能がある者もいるし、話術が得意な者もいる。そういう学校の成績で測れない才能を掬い取ろうというのが、価値観の多様化を前提に設計された「ゆとり教育」の目論見であった。

 価値観の多様化以降、盛んに叫ばるようになった神話がある。「誰にもその人だけの才能がある」というものだ。これは貴方は学校の成績は良くないかもしれないが、スポーツが出来るかもしれない。芸術の才能があるかもしれない。文才があるかもしれない。あるいは何も得意なものが無いかもしれないが、それは貴方が自分の本当の才能を見つけていないためである。貴方にはきっと貴方にピッタリの「何かが」がある。頑張ってそれを見つけなさい。この自分にだけ存在する隠された才能、即ち「個性」という神話を価値観の多様化は齎した。

 一見するとこの考え方はとても素晴らしいもののように見えるかもしれない。学校の成績が良くない者にとって学校の成績で人生が決まってしまうような社会というのは非常に生きづらい。しかし自分にも何か隠された才能が存在すると思えれば、その生きづらさというのは大いに軽減される。しかし自分にとってその「隠された才能(=個性)」がいつまで経っても見つからなければ、そのプレッシャーは恐ろしいほどに膨れ上がると同時に、「いや、自分はまだ本当の自分を見つけられていないだけだ」という自意識はどんどん増幅していく。もし社会が完全な学歴社会であれば、学校の勉強が出来ない自分に諦めをつけることが出来るし、学歴で全てが決まってしまうような社会が悪い!と責任転嫁することも簡単になる。しかし価値観の多様化した社会においては、いつまでも自分の才能を諦めることは出来ないし、その才能を見つけることが出来ない責任は全てが自己が負担することになってしまう。

 ここで僕は「価値観の多様化」という現象を批判したい訳だが、勘違いして欲しくないのは、僕は決して競争社会を礼賛している訳ではないということである。多くの人間は「競争社会」と「価値観の多様化」を二項対立として扱っている。世の中には「競争社会は良くないので、もっと多様な価値観を認めるような社会にしよう」といって学歴社会を批判する者もいるし、一方で「多様な価値観を認めると社会は混乱してしまう、やはり子供たちには幼い頃から競争することを教えるべきだ」といってゆとり教育を批判する者もいる。僕は「価値観の多様化」という思想に対して異議を唱えるが決して後者の立場を取る訳ではない(勿論、前者の立場も取らない)。これらはどちらも「競争社会 vs 価値観の多様化」という二項図式を前提とした論である。しかし僕は「競争社会」と「価値観の多様化」が相反する原理によって動いているものとは考えない。むしろ「価値観の多様化」とは「競争社会」の究極的な完成体であると考える。

 まず、先ほど述べた「価値観の多様化」における論理。「俺は学校の成績は良くないが、他の分野には才能がある。人には得意なことと苦手なことがあるので、自分の得意な分野を伸ばすべきだ」という言い分は、一見して競争を否定しているようでいて、実際は自分の苦手分野は切り捨て、自分の得意分野で相手を負かすことを前提に唱えられている。自分は勉強で人と勝負したら負ける。負けると悔しい。なので勉強以外の分野で他人に勝つことで恨みを晴らす。これはそういう論理なのだ。この論理では、自分の得意分野とは単に自分の「恨みを晴らす」ための道具になる。何か相手よりも自分の方が優れている部分を見つけ、その点において自分を相手よりも優位な立場におく。これは裏を返すと相手の欠点を見つけ、その部分に対し自分の優位性を主張するということである。「あいつは学校の勉強は出来るが、それ以外は何も出来ない」とか「あいつは高収入だが、真面目過ぎて遊びを知らない」という具合である。「自分の苦手なことは置いておき、自分の得意の分野を伸ばす」という考えが、そのまま裏返すと「相手の得意分野には目を瞑り、相手の欠点を槍玉に挙げる」という考えになるというのは皮肉である。

 僕のような高学歴でもない、低学歴でもない、半端な大学に通っている人間の学歴コンプレックスは浅ましい。自分より低学歴の人間を「バカ」と呼び。自分より高学歴の人間を「ガリ勉」と呼ぶような人間は少なくない。うちの大学はまだマシだが、東京の大学に通っている人間と話しているとそう感じることが特に多い*1。このゲームのルールは競争をして優れた者が勝ち、劣った者が負けるという単純なものではない。このゲームはより自分にとって都合のいいルールを設定した者が勝ちというゲームなのだ。自分より低学歴の人間に対しては「学歴」というルールを採用し、自分より高学歴の人間に対しては「遊びを知っている」だとか「オシャレ」だとか「俺の方がイケメン」だとかというルールを採用する。そうやって自分にとって都合のいいルールを設定して相手をバカにすることによって勝者が得られる報酬とは「ささやかな自意識」である。他人をバカにすることによって自意識を満たす、これは自意識ゲームなのである。

 この記事の執筆に至った動機上、あるいは僕自身の抱いているコンプレックスも多分に反映されているためか少々学歴に関する話が多くなったが、勿論ここまでの記述で学歴についての話をしたのはあくまで自意識ゲームの一例に過ぎない。実際は学歴とは全く無関係にこの自意識ゲームは成立している。相手の収入を槍玉に挙げて、自分より低収入の人間は単にバカにし、高収入の人間には「収入はいいかもしれないが、全然クリエイティブじゃないよね」とか言う人々。相手の聴いている音楽を槍玉に挙げて下品で低俗な音楽を聴いていることを罵っている一方で、別の人間に対してそんな音楽を聴いてるなんて上品ぶって何オシャレ気取ってるの?とか言う人々。このようなダブルスタンダードが容易に成立する根底にあるのは「自分は他人よりも優れている」という自意識である。「自分は他人よりも優れている」という前提の上で、「自分は他人よりもどの点がどのように優れているのかを上手くプレゼンテーション出来た人間が勝ち」というのがこのゲームのルールなのである。

 現代社会、若者が就職するためにはこのような自己ブランディング能力が不可欠と就活セミナーなどでは教えられることが多いが、自己ブランディングという行為は他の人間とは違う自分だけが持つ能力、ナンバーワンではなくオンリーワンとしての自分の表現であるように見えて、実際はものすごく他人の存在を意識している。他の人には無い自分だけの才能というのは、それ自体が既に他人との比較を参照している。勿論そんなことを言っていては現代社会を生き残ることは出来ない。そもそも就職することが出来ない。だから僕は世間にこういった考え方の人間が増えることは仕方が無いことだと思う(まず、僕自身が他人との比較をものすごく意識する人間である訳だし)。だから僕がここで批判したいのは「他人をバカにしている個人」ではなく、むしろ「他人をバカにしなければ生きることが出来ないような社会」の方である。俺は悪くない!アイツも悪くない!誰も悪くない!悪いのは社会だ!!

 僕は無責任な執筆者なのでこの問題に対する効果的な解決策などは用意していない。僕が行いたいのはあくまで「問題提起」である。他人を傷つけることによって自意識を満たすような浅ましい人々の存在。その浅ましい感情が僕自身の中にも同じように存在するという事実。そして他人を貶めないと生きていけないという構造。他人をバカにして喜んでいるような人間は、他人をバカにしないと生きることが出来ない可哀相な人間なのだ。それは僕自身もそうだし、これは完全に主観だけども恐らくは現代を生きる多くの人々がその中に含まれるのだと思う。無論、他人をバカにすることによって自意識を満たすという現象が現代社会特有の病であるとは僕は考えない。弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものをたたく構造は古来より階級社会という形で存在し続けてきた。問題はそういった構造を瓦解させることを目標に掲げていた筈のリベラリズムが更に複雑なルサンチマンの擦り付け合い、他人を如何にバカにするかで優劣を競い合う自意識ゲームを生み出してしまったという事実と、当の左派たちがその事実に全く気付いていないということだ。

 みんなが第一に考えているのは自分を正当化することだ。自分自身を正当化することは何も悪いことではない。それをしないとアイデンティティを形成することは出来ない。しかし自分を正当化するためには他人をバカにしないといけないような構造は健全とは言えない。結局決められたレールの上を外れて、自由奔放な生き方をする人間のやりたいことは「決められたレールの上を決められたような生きているつまらない人々」をバカにし、そのようなつまらない人々から羨望の目で見られることである。もちろん決められたレールの上を外れた生き方が悪い訳ではない。そしてレールの上を外れた生き方をしていることを自慢することが悪い訳でもない。悪いのはレールの上を外れた生き方をしていることを、わざわざ自慢しなければいけないような構造である。

 勢いに任せて書き殴ってみたが、この文章が単なる「人のことをバカにしてはいけません」とかいう道徳論だとか「あー、こーゆーやついるよねー、うざいよねー」とかいう他人事として読まれなければ幸いである。

呪いの時代

呪いの時代

*1:こういう書き方をしていること自体が僕自身の学歴コンプレックス(東京コンプレックス?)の顕れであることを考えると尚更根が深い

 「見えない敵と戦う」という表現がある。何かに対して必死に反発しているというのは見て分かるが、一体何に対して反発しているのかがよくわからないような状態を揶揄する言葉だ。「奴ら」は社会の中に溶け込んでいて、外見は普通の人間と区別出来ないが、中身は全く異質の存在で僕らの生活を脅かそうとしている。僕らはそれに対して武器をとって戦わなければならない。とか言うと、如何にも危ない人っぽい。極端な書き方だが、今僕が行ったような話法で敵を措定し戦っているような状態を「見えない敵と戦う」と表現する。敵は確かに存在している。しかし彼らは巧妙に偽装しているので、その姿は誰にも見えない。

 彼らには様々な名前が与えられるが、ここでは例として「リア充」を取り上げたい。「リア充」という言葉の意味については詳述しないので、この言葉を知らない人は各自で調べてほしい。というのも、この「リア充」という言葉は今やバズワードの代表になっており、ここで僕が端的に「リア充」の意味を説明することは出来ないためである。一応、語義に沿えば「リアルが充実している人々」ということになるのだろうが、この言葉を知らない人間にこれだけの説明で意味が伝わるとは到底思えない。寧ろこの言葉の重要な点は語の定義的な意味ではなく、その使われ方の方である。

 「リア充」とは、主に話者のルサンチマンの対象として扱われる。あるいは自らをリア充であると自称する場合、その言葉には多分に自虐的な意味合いが込められる。つまり自らのリアルが充実していないという空虚感、疎外感を抱く人間が想定するリアルが充実している人々が「リア充」なのである。*1つまり自らの持つルサンチマンの矛先として都合のいい属性を備えている人間が「リア充」と呼ばれるのだから、当然そこで想定される「リア充」のイメージというのは人によって大きく異なってくる。例えば恋人がいないことについて劣等感を抱いている人間にとっては恋人がいる人間が、対面での人間関係が上手く築けなくて悩んでいる人間にとっては交友関係が広く社交的な人間が、異質な趣味を持っていることについて劣等感を抱いている人間にとっては一般的な趣味を持っている人間、または無趣味の人間がリア充として想起される。

 またこのようにして「リア充」の姿が決定されていくと、それに対立するアンチとしての自己イメージも定まってくる。恋人がいて充実した生活を送っているリア充に対するアンチ(=非リア)としての<私>といったようなアイデンティティである。このようなアイデンティティは、自らの劣等感を自尊心に転換するという倒錯を発生させる。「自らを非リアと言って自虐している人間は、自虐しているように見せかけて自慢をしているのだ」と非難する人がいるが、この非難は半分は正しく、半分は的外れだ。実際は自虐と自慢は不可分になっている。自らが非リアであるということに対する妙な自尊心は、リア充に対する劣等感を担保に成立しているのである。「私は○○である」ではなく「私は○○ではない」という論法によって成立するアイデンティティのことをネガティブ・アイデンティティ(否定的同一性)と呼ぶ。非リアのアイデンティティとは「私はリア充ではない」という論法によって成立する。「私は非リアである」と言っても同じことだ。何故なら「リア充」の定義の曖昧さに比べて「非リア」の定義は非常に明快で「リア充ではない人々」だからである。

 このようにネガティブな形でのアイデンティティ形成を行う限り、非リアのアイデンティティというのは常に「リア充」という存在に依存している。「リア充」がいるから「非リア」が存在する。もし「リア充」がいなくなれば「非リアとしての<私>」は存在しない。そのために「リア充」は常に存在しなければならないと同時に、私がアイデンティティを形成しやすいように徹底的に都合のいい存在でなければならない。少なくともネガティブ・アイデンティティが形成出来る程度の心地よい劣等感を与えてくれる存在でなければならない。そのためには「リア充」は徹底的に仮想的な存在でなければならない。もし、本当に目の前に「本物のリア充」が現れてしまったら、その時は劣等感を自尊心に変換しネガティブ・アイデンティティを形成することが出来なくなってしまう。「本物のリア充」を前にした時に<私>が味わうことになるのは、単なる強烈な劣等感である。

 さて、長々とリア充論を書き連ねてきたがここら辺でやっと本題に戻りたい。元々は「見えない敵」についてである。この「見えない敵」の一例として「リア充」を取り上げたのだが、僕がここで「リア充」について述べたことを、「見えない敵」と呼ばれるような存在一般に敷衍出来ると仮定すれば、「見えない敵は見えてしまってはいけない」という一般論を導き出すことが出来るだろうと思う。つまり「リア充」とは見えない存在であるからこそ、私にとって有意義に働くのであって、もし「リア充」が見えてしまったら、その瞬間に私は大きな精神的ダメージを受けることになる。そのため、見えない敵は出来る限り見えないように遠ざけておくというのは定石である。インターネット空間というのはそういった意味で非常に非リアにとって相性が良かった。(リアルが充実しているといった時に使われる意味での)リアルでの人間関係と比べて、ネットでの人間関係というのは自分と趣味嗜好、主義主張が合う人間を非常に選択的に選び、さらにその集団とは気が合わないことを悟ると早急に離脱し、また再所属することが出来る。そのため異質な存在を出来る限り排除した、まさに見えない敵を見えないようにするような空間を成立させることが出来る。

 しかし、状況が変わったのはツイッターの登場である。ツイッターの登場はとにかくあらゆる人間の存在を可視化させた。見えてはいけないものを見えるようにしてしまったのである。これにより今まで「見えない敵」だと思っていた存在が「見える」ようになってしまった。世の中には、そいつがただ単に存在しているというだけで腹の立つ存在がいる。こういう考え方の人間がいると考えただけでイライラしてくる。誰にだってそんな存在が1つか2つぐらい*2は想像出来るだろう。しかしそういった存在は実際にはどうすることも出来ない場合が多いため、現実的には目を瞑って見ないようにするしかない。しかしツイッターはそうした憎むべき敵というのを否が応にも見えるようにしてしまったのである。

 何年か前に「ツイッター鬱病の原因になるか?」という記事が書かれた*3ツイッターを止めれば鬱が治るという話を耳にすることもある。もちろんこれは単なる巷説に過ぎないが、しかしある程度の妥当性はあるように思える。世の中には自分の気に入らない人間も存在する。それはたしかに認めなければならない事実であるが、そのような状況の中でサバイヴするためには何らかの処世術というものが必要になってくる。嫌いな人間と共存していくためには、その嫌いな人間を見えないようにするというのは一つの立派な処世術の筈だ。

暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

*1:ここで使われているリアルという言葉の意味は単に対面での人間関係や身体活動を伴う生活世界といった程度の意味である
 

*2:ここで想像されるのは具体的な個人でなかったり、さらには人格を伴ってすらいない抽象的なイメージやステレオタイプも含まれるため「1人か2人」ではなく「1つか2つ」という書き方をした
 

*3:http://npn.co.jp/article/detail/54456055/
 

 昨日ゼミで百合萌え*1ついて扱った。そこで男性の持つ暴力性に対する嫌悪という話題がちょこっと出てきたので、これについて自分なりの咀嚼を行ってみたい。

 フランスのジャーナリストであるエリック・ゼムールは著書『女になりたがる男たち』*2の中で保守的なバックラッシュとは違った形でのユニークなフェミニズム批判(というよりも痛烈な皮肉)を行っている。彼は「歴史の記述はこれひとつとは限らないという仮説」と慎重に前置いた上で、フェミニズムによる女性解放の歴史を「男性視点」のものに転換する。シナリオを要約するとこうである。まず男性にとって自らの誇りと権威を最も奮える機会と言えば戦争であった。しかし第一次世界大戦の惨劇により、もはや男性性を誇示するための機会としての戦争を正当化することは出来なくなった。戦争が正当化されなくなっただけではなく、男たちの特性だと思われていた合理主義や科学的進歩主義を、一部のエリートたちは熱狂的に捨て去った。男たちが齷齪励んで達成する科学的な進歩というのは最終的には戦争に利用されるものであるためだ。男性が自らの力を示すために磨き続けてきた「人を殺す技術」は、もはや男性自身の手に負えるものではなくなってしまった。例えるなら過度な勃起に耐え切れず海綿体組織が破壊され、男性器が不全になってしまうようなものだ。

 これに対して大きく分けて2つの方向が見出された。一つはペニスを捨てて女性化すること。もう一つはあくまでペニスにしがみつくことである。後者を選んだ者は全体主義を形成し第二次世界大戦とともに葬られた。めでたくして先進的な国の男性たちは女性化する道を選ぶことになる。ここでゼムール氏が強調しているのは男性が自ら去勢されることを喜んで受け入れたということだ。この傾向を最初はフェミニストたちは喜ばしいものだと考えていた。しかしすぐに彼女たちは気づくことになる。男性による支配によって女性は長い間虐げられてきたとフェミニストたちは語るが、しかし「支配する」ということは同時に「保護する」ということも含意する。仮に男性が女性を性的に搾取していたとして、それによって男性は女性を守らなければならない。本来これは権利と義務の関係に当たる。そもそも女性を守ることが出来るほど力の強い男性でなければ女性を性的に搾取することは出来なかったからである。しかし去勢された男たちは、自らが持っていた権利と同時に義務まで放棄してしまった。

 これがゼムール氏の男性解放史観である。この本の中で彼は「股間の重荷からの解放」という面白い言葉を使っている。精神分析において勃起したペニス(=ファルス)とは男性の権力の象徴とされる。これは女性を服従させ支配するものであるが、同時に女性を満足させるためのものである。フロイトの性理論を踏まえるならば、それは母親の「穴を埋める」ための存在なのだ。しかし女性を服従させ支配する権利と同時に女性を満足させる義務すらも男性が手放したとするならば、困ってしまうのは女性の方である。これに対する女性たちの反応はおよそ2種類に分けられるように思う。一つはやはり男性にペニスを求め、昔のような強い男性像を求める傾向。社会学的に言えば家族回帰と呼ばれる現象である。もう一つはもはや男性ではなくもっと別のものに満足を求める傾向。女性同士の結束力を高め、その中で性愛とは別の回路に満足を見出すという方向性だ。しかし僕は女性の抱える問題についてはあまり興味も知識も乏しいので、今回は深追いは避けることにする。

 さて、「結局のところフェミニストたちは女性たちを解放するとか叫びながら、実際は自分たちの首を絞めただけなのだプギャーm9(^Д^)」と能天気に叫ぶことが出来れば話は簡単だ。晴れて股間の重荷から解放された男たちは、自分の自由を謳歌しながら幸せに暮らすことが出来るようになりました、めでたし、めでたし。しかしこのような脱ファルス化とも呼べるような傾向は男たちに新たな悩みをもたらした。まず男性がどれだけ脱ファルス化したとして、性欲というものが失われるわけではない。今まで男性の性欲は、ペニスが女性に反応し、行為を行い、解消されるという単純な理屈で説明することが出来ていた。しかしペニスによる正当化が無効化されたときに、男性は性欲の適切な捌け口を見出すことが出来なくなる。本の中の言葉を使えば「旧式の男の身体、本能、細胞がいまだに反応するのに対して、新型の男の脳の方は、自分の行動を言葉にし、意味を与えることができな(p.85)」くなったのである。旧式の身体と新型の脳が解離してしまっているのである。結果、哀れな男性たちは自分の性欲を説明するために嘘をつかざるを得なくなる。

 昨日のゼミは百合についてのものだった。百合には男性、女性双方のファンが多いが特に男性においてはエロ描写を嫌悪する者が少なくない。まるで自分には性欲がないかのように振舞い、性的なものに対する過剰な嫌悪感を抱くという症状はフロイトの言うヒステリーの症状とかなり近似したものがある。ここから仮説として立てられるのは自らの性欲、男性的暴力性の象徴でもある勃起に対する忌避がポルノグラフィーに対する嫌悪に転写されているというものだ。一方で同人誌など二次創作の次元では百合を題材にしたポルノグラフィーも少なくないため、ポルノ一般に対する嫌悪感を百合読者全体に一般化できるかどうかについては慎重にならないといけないけれども、少なくともポルノが読みたいならば百合という倒錯的な題材を利用する必然性はない。

 僕自身の話をすると、僕は百合エロは大好物で、BLのエロは興味がない(別に読んでも興奮もしないし、嫌悪もしない)が、ヘテロ的なレイプ・ファンタジーには強い嫌悪感を抱くといった種類の人間だ。もし拙い自己分析が許されるなら僕はヘテロ的なレイプ・ファンタジーを見たときに、その中に描かれる男性的暴力性というものに強い同属嫌悪を覚える。これは自らのファルスの否認であると解釈できるが、一方で百合エロを見て素直に興奮できるのは、そこに描かれるポルノに男性的暴力性が存在しないためと言えるだろう。ポルノの中で描かれる男性的暴力性は自分の中に存在する男性的暴力性と想像的に接続される。股間の重荷から解放されたというのは単なる幻想に過ぎない。ヘテロ的なレイプ・ファンタジーを見たときに僕は自分の内側にも醜い男性的暴力性が存在するという事実に否が応にも直面せざるを得なくなるのだ。

 嫌悪感を抱くというのは分かりやすい否認の形だ。まるで「自分は男性的暴力性を持っていない純粋で心優しい人間ですよー」と振舞おうとすればこそ、自らの持つ暴力性はより明確に浮き彫りになってくる。そのため脱ファルス化された男性たちは、自らの暴力性を出来るだけ自覚せずに済むような「安全なポルノグラフィー」に逃げ込むこととなる。どれだけ脱ファルス化しようと性欲が失われるわけではないので必ずどこかで折り合いをつけなければならなくなる。あとはその妥協点をどこに設定するかという話である。「百合はOK-百合エロはNG」とするか「百合エロはOK-レイプ・ファンタジーはNG」とするか、あるいは「二次元ポルノはOK-三次元ポルノはNG」とするか、あるいは「ポルノグラフィーはOK、実際のレイプ犯罪はNG」とするか、これはその人それぞれの妥協点の位置の違いにすぎないというのが現時点での僕の考えだ。





女になりたがる男たち (新潮新書)

女になりたがる男たち (新潮新書)

*1:女性の同性愛的な傾向に対する嗜好。主にオタク文化における物語、キャラクターあるいはポルノグラフィーのジャンル
 

*2:『女になりたがる男たち』 エリック・ゼムール(訳 夏目幸子) 新潮新書
 

 今日、ゼミで「モテ・非モテ問題」を取り扱った後、帰り道に後輩の男の子と2人で同問題についていろいろ話したので、そこで話題に挙がったことについてまとめてみる。


 まず僕は昔から(彼女が出来る前から)一貫して恋愛至上主義について反対しているのだが、その理由として恋愛と資本主義の奇妙な関係が挙げられる。フリーライター堀井憲一郎の著書『若者殺しの時代』*1には、現代日本の恋愛文化は主に80年代に形成されたという内容が著されている。この本の内容を踏まえながら僕の持論を展開すると、80年代の好景気に乗じて恋愛は商品化されてしまった。つまり若者に恋愛をさせると大人たちが儲かるので、どんどん若者に恋愛をさせてお金を使わせようというビジネスモデル*2が誕生し、主に広告代理店の策略によってメディアを通じた「恋愛をしろ!」「恋愛をしないやつはクズだ!」みたいな価値観のプロパガンダが行われていったのである。

 ここで用語の整理を行いたい。今、80年代の好景気に伴って恋愛を商品化するビジネスモデルが生まれ。さらにこれを普及させるために「恋愛をしなければならない」という同調圧力が発揮されたと述べたが、概念上の整理のために恋愛が商品化された状況のことを恋愛資本主義*3、「恋愛をしなければならない」という同調圧力のことを恋愛至上主義と分けて定義する。恋愛資本主義恋愛至上主義は2つ同時に誕生したものであるが、恋愛資本主義とは恋愛を商品化することによって収益を得るビジネスモデルのことを指すのに対し、恋愛至上主義とはこのビジネスモデルを一般的なものに拡大するための思想であるので両者は厳密にはそれぞれ異なった現象である。

 かつて恋愛というのは贅沢品*4であった。恋愛をしたい人間はすればいいが、例え恋愛をしなくても日本には「お見合い」という救済制度があるために結婚することは出来たし、個人の性欲処理に関してはエロ本やAVなど相応のメディアで間に合わすことが出来ていた。しかし恋愛至上主義の敷衍は恋愛を贅沢品から生活必需品に変えてしまった。贅沢品と生活必需品の違いは価格弾力性の違いにある。恋愛が生活必需品になった(=価格弾力性が低下した)ということは価格や所得の変化によって生じる需要の変化量が減少したということである。まず80年代の好景気に伴って恋愛の価格は、それこそバブルのように急騰した。しかし90年のバブル崩壊を経ても恋愛の価格はまだ高い位置に留まったままだった。何故なら恋愛はもはや生活必需品となってしまったから、若者は例えその商品が高かろうと安かろうと値段に関係なく必要となれば買わざるを得なくなったためだ。そのことに胡坐を掻いて消費者から搾取を行い続けていたところに、『電車男』以降のオタクブームに伴った擬似恋愛という非常に低価格の代替財への需要の移行が発生し、結果的に恋愛バブルの崩壊を招いてしまったというのが昨今騒がれている「若者の恋愛離れ」のシナリオなのではないかと僕は考えている。

 さて恋愛バブルは崩壊してしまい、恋愛資本主義自体も破綻してしまったとまでは言わないまでも、恋愛を商品化するビジネスモデルは、もうかつてのような力は失ってしまったように思える。しかし例え恋愛資本主義が衰退しても恋愛至上主義は生き残ったままになっている。むしろ、これが現代社会の抱える病理なのではないかとすら僕は思っている。ここからは先は、些か僕の精神論のような話になるが暫くお付き合い願いたい。今日のゼミの場で、とある人間の発言に「モテるために何かをやるというのは、例え何をやったとしてもとてもダサい」というものがあった。本当にその通りだと思う。僕には「モテるとかモテないとか関係なく、本当に好きで何かに打ち込んでいる人間は、例え対象が何であれ魅力的である」というテーゼがある。*5申し訳ないが何の根拠も示すことが出来ない。言わば僕の恋愛論の公理である。

 例えば今日ゼミの場で挙がった話題の中に「高学歴、高収入の女性は、自分よりもさらに高い学歴や収入の男としか付き合おうとしない」というものがあった。たしかによく耳にする話であるが、これを「収入」や「学歴」というものから、少し軸をズラして考えてみよう。例えば僕はよくゲームセンターに行ってドラムマニア*6をやっている。ドラムマニアのプレイヤーは本当に男性だらけで、女性プレイヤーというものは滅多に見かけることがない。しかしそんな中でも、ごく稀に非常に上手い女性プレイヤーを見かけることがある。僕が「女性でこんなに上手い人がいるのか」と感心しながら眺めていると、大抵そういう女性には彼氏がいて、その彼氏はさらにプレイが上手だったりするという場を過去に何度か見たことがある。ここで重要なのは、まずモテるためにドラムマニアをやる人間はいないということだ。*7たしかに彼らの馴れ初めを知る由はないが、しかしここに何か大きなヒントがあるのではないかと僕は思う。

 結局、「モテるためにはどうすればいいか」という恋愛を軸にした考え方をしている限り、恋愛至上主義、あるいは恋愛資本主義の枠の中から脱出することは出来ない。自分が本当に好きになって何かに打ち込んでいるうちに、付随的に発生してくるものが人間的魅力なのであると仮定したら、この世の中で本当に自分が好きになれるものを見つけることが何よりも大切なことであるということになる。もちろんこれはあくまで理想論である。おそらく現代社会は「モテるためにはどうすればいいか」という打算抜きで、本当に自分が好きになれるものを見つけることが非常に難易度の高いことになってしまった時代なのだと思う。それだけ「恋愛」が強くなり過ぎているのが、恋愛至上主義という現象なのだと思う。だから僕は昔から一貫して恋愛至上主義を打倒することを目標に掲げているのである。よく勘違いされるが、僕は恋愛至上主義を批判しているのであって恋愛を否定しているわけではない(まず僕自身に彼女がいるし)。ただ何でもかんでも恋愛だとかセックスだとかに結び付けて考える人間を見ると、僕はとてもムカつく。無論、単にムカつくというだけで非難しているわけではない。恋愛を最上位概念において自身の行動指針をとっている限りは、モテ・非モテ問題におけるルサンチマンの螺旋から永久に抜け出すことは出来ないし、何よりもこの恋愛至上主義という考え方が現代社会にもたらす病理は確実に存在すると考えているためだ。


追記(2012/5/12 4:30)

 「自分の本当に熱中できるものに必死に打ち込むことは素晴らしい」という言葉は、「人を殺す言葉」だという話を頂いた。たしかにその通りだし、『若者殺しの時代』の中でも似たようなことが書かれていた。今の時代は「自分が本当に熱中できるものを見つける」ことがとてもとても難しい時代なのだと思う。それどころか「自分が本当に熱中できるもの」という言葉自体がある種の「魔法の言葉」のようになっていて、自分はそれを努力して見つけようと探すけど、それによってかえって「自分が本当は何をやりたいのか」との自問自答ループに入ってしまう。「自分が本当に熱中できるものを見つける」ことをネタにしたビジネスモデルの存在すらある*8ことを考えるとこの記事で僕が言っていることは、単に「恋愛」をめぐる問題を、「自分が本当に熱中できるもの」というものに置き換えただけなのかもしれない。猛省。

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

電波男

電波男

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

*1:『若者殺しの時代』 堀井憲一郎 講談社現代新書
 

*2:「やっぱデートの時は高いレストランに行かなきゃねー」とか「大切な恋人には高いプレゼント贈らないとねー」みたいなこと
 

*3:恋愛資本主義とは、本田透が『電波男』(講談社文庫)の中で提唱した概念であり、僕のオリジナルではない
 

*4:厳密には商品ですらなかったので、この比喩は不適切なのだが
 

*5:このテーゼはジェンダー差を考慮していないとの反論があるかもしれない。僕個人としては自分の本当に好きになれものに打ち込んでいる人間というのは、男だろうと女だろうと非常に魅力的に思えるのだが、一般論的に考えるとどうかわからない。ともかくこのテーゼのジェンダー差についてはこの記事の内容に余るものとなるため、今回は考慮しない。
 

*6:「GuiterFreaks & DrumMania」 KONAMI   GuitarFreaks & DrumMania OFFICIAL SITE
 

*7:だってモテる訳ないんだもの・・・ 常識的に考えて・・・
 

*8:これについてはライターの速水健朗の著書『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)が詳しい

 数年前『他人を見下す若者たち』*1という新書が出版され、にわかに話題を呼んだ。2006年2月に初版が発行されたこの本の内容を要約するとメディアの発達、個人主義の発達により自身の実力以上に自分の能力を過大評価する「仮想的有能感」によって、主に現代の若者たちは自分以外の人間を見下し、社会全体のモラルの低下を招いているというものだ。

 案の定というか、この本の評価は(少なくとも消費者レビューを見ている限りは)あまり芳しくない。いかにも年をとったオッサンが言いそうな一般論の焼き直し、客観的とは言いがたい統計データの恣意的な解釈、考察の杜撰さなどなど、手厳しい批判の数々を読んでいると、この本の内容が本当に的を射たものであるということがよくよく実感できる。
 僕の考え。教育学や心理学の専門家でもない一般素人向けに書かれた新書に学問的な厳密さを求めるのは野暮というものだ。特に根拠も示さずに自分の言いたいことを垂れ流す無責任な評論家に比べれば、それなりにデータを呈示しながら自説を組み立てているこの本は新書としては全くの及第点であると思うのだが、どうも賢明な読者たちはそれでは許してくれないらしい。この本の内容が学問的に論証が不十分であるというのはたしかに正論である。しかし学問的厳密さを求めるならそもそも新書なんて読むべきではない。少なくとも明らかな事実誤認や論理破綻が無い限りは寛容な目で読むというのが新書の読み方だと僕は思う。だいたい「〜かもしれない」「〜と思う」といった断定を避ける言葉使いが気に入らないというレビューも多いけど、薄弱な根拠で「〜である」と断言するより僕はよっぽど正直で誠実だと思うのだが。

 ここまで僕がこの本を擁護するかのような書き方をしているのには実は理由がある。もちろん僕もこの本の内容に対して無批判というわけじゃない。ただこの本を読んで激怒し、正しい批判を行って内容を酷評するというのは、あまりにも無様な行為だと思うのだ。この本の表紙にはデカデカとしたフォントで「自分以外はバカの時代」*2と書いてあり、本の帯には2人の男が「オレはやるぜ・・・」「何を?」「何かを」と会話しているマンガが掲載されている。つまりこの著者は明らかに読者を戦略的に挑発しているのである。この本を読み終わった後、おもむろにパソコンを立ち上げamazonのカスタマーレビューに正論を並べ、本の評価に星1つをつける。まさにそういった読者を想定してこの本は書かれている。そうと分かるともう本を批判したくなくなってしまうというのはプライドのある人間にとっては自然なことだと思う。まさに「この本の内容をあーだこーだと批判しているお前、そうお前だよ!お前みたいな人間こそが、まさにこの本の中で描かれている他人を見下す若者の具体例なのさ!」と言われているかのような・・・ この本の著者はきっと性格の悪いやつに違いない。

 閑話休題。この本の論の骨子は「仮想的有能感」という考え方にある。これは著者の造語で簡単に説明すると一般的に言うところの「自意識過剰」とか「自信過剰」みたいなもんである。*3これが潜在的に働き他人を無意識にバカにする傾向が生まれるというのが著者の論旨である。こんなの昔からあるよ!という批判はその通りなのかもしれないが、ともかく昔なんて知らん現代の若者の一人として僕はこの仮説に非常に共感できる(共感できすぎて、そんなの当たり前すぎるよねっていう思いはあるけど)。ところで僕はこの仮想的有能感という言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのが「自己愛性人格障害(Narcissistic Personality Disorder)」という精神疾患である。これは自慢するのが大好きで、とにかくスゴイ人になりたい願望が強くて、自分は限られた人にしか理解できない才能を持っていて、褒められるのが大好きで、世界は自分を中心に回っていると思っていて、自分のために他人を利用して、人に共感するのが苦手で、嫉妬深くて、傲慢な人間。つまりものすごく簡単に説明すると厨ニ病クソヤローのことである。*4

 僕が足りない知識と知性を綜合した限りでは、著者の言う「仮想的有能感」の特徴の多くは「自己愛性人格障害」においても当てはまる。もしそうだとすると、これは単なるモラルの低下といったような問題で済ますことは出来ない。自己愛性人格障害というのは単に自意識過剰な嫌な奴というわけではない。この障害におけるナルシズム(自己愛)というのは、常に自己意識の低さと表裏一体の関係にあるのだ。簡単に言うと「自分は低俗で無価値な人間である」と心の中で思っているからこそ、それを否定するために表面上では「自分は素晴らしい人間である」と叫ばざるを得ないというのがこの疾患の仕組みである。だとすれば仮想的有能感というのは防衛機制なのである。防衛機制というのは自分の心がぶっ壊れないように身を守る手段のことだ。つまり若者は自分の心がぶっ壊れないようにするために、誰かをバカにしなければんらない。もし「他人をバカにすること」を封じられたなら、そのときは別の手段で自分を守る方法を見つけるか、もしくは自殺するかのどちらかを選ばなければいけない*5。ゆえにこの本は決して「他人をバカにするのはよくないので、他人をバカにするのはやめましょう」という、いかにも学校の先生が言いそうな説教本ではない。むしろ、もはやそのような方法でしか自分の心がぶっ壊れないように守ることが出来ない若者たちの悲鳴を代弁したものなのである(少なくとも僕はそういう風に読んだ)。

 さて著者はこのような若者像をさんざん説明した後に、本の最後の方にちょろっとだけ、あまり役に立ちそうにない解決策を呈示している。それは「しつけの回復」と「自尊感情の強化」と「感情の交流できる場の形成」である。おそらくこの本が単なる説教本にすぎないという印象を与える原因の一端はここにあるのだろうが、その前に著者はこの仮想的有能感の呪縛を断ち切るのは「きわめて難しい課題である」と前置きしているように、これらが安易な解決案に過ぎないということは著者自身自覚しているのではなかろうか。だいたいこういう問題というのは、問題提起することは出来ても具体的な解決策を見出すのは非常に難しい。若者論については他にも多くの人が多くの視点から様々な考察をしているが、説得力のある解決策を呈示できているものは非常に少ない。割かれている紙面の薄さから見ても、たぶんこの本の著者は「さんざん言いたい放題言ってきたので、とりあえず申し訳程度にでも解決策っぽいものは書いておかないといけないよね」みたいな使命感から最後のこの安易な解決策を書いたのではないだろうか。それは何も悪いことではない。だって大抵の本がそうなのだもの。そもそもこの本の著者はオッサンである。そして実際にこのような状況の中を生きているのは僕ら若者である。

 そこでこの本を読んだ若者の一人として、僕が解決策とも言えない処世術の一つを呈示することを試みたいと思う。まず「昔はよかった・・・」ので「昔に戻す」という発想はよくない。これは昔がよかったというのが単なる回顧主義に過ぎないという感が否めないし、これだけメディアが発達した時代で時間を巻き戻すことは限りなく困難である。仮に出来たとしても時間がかかりすぎる。それから当然「人をバカにするのはよくない」ので「人をバカにするのはやめよう」という道徳的教訓も何の解決にもならない。それが出来ればとっくにやっている。僕らはとりあえず、まず何よりも「今」を生きなければならない。いかに他人をバカにするかという自意識ゲームの中をサバイヴするためにまず必要なのは憎悪を供給する対象、すなわち敵の存在である。しかしここで設定すべき敵は具体的に実在する個人であってはならない。何故なら、具体的に実在する個人というのは憎悪の供給先としては非常に効率が悪いからだ。例えば「アイツはバカだ」と言って具体的な誰かをバカにした場合、もし相手が実はバカではないということが判明した時にこちらは別の対象を選ばなければならなくなる。あるいはさらに細かい粗を探して、さらに相手をバカにすることも出来るが、それを繰り返せば繰り返すほどドツボにハマっていく。なので誰かをバカにするときは「アイツはバカだ」ではなく「アイツらはバカだ」というべきである。その一例が「リア充」である。リア充という世界のどこに存在するかもわからない誰かというのは憎悪を供給するにあたって非常に効率がいい。見えない敵と戦っている限り、その見えない敵は反撃してくることもなければ、いなくなることもないし、それに本当に実在する「誰か」を傷つけることもない。

 実を言うと僕がこんなこと言わなくても、現状はそのようになっているように思える。オタクがいたり、サブカル厨がいたり、リア充がいたり、ギャルがいたり、ヤンキーがいたり、ともかく様々なクラスタに分かれた人々はお互いがお互いの手の届かない場所から相互に罵り合っている。こうすることによって全体としては非常に効率のいい憎悪の供給システムが形成されている。前近代、凶事は妖怪の仕業によるものと考えられていた。何か嫌なことがあると「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」*6ということになっていたのである。嫌なことは妖怪な仕業ということにするというのは昔の人が考えた素晴らしい発想だと思う。「オレは悪くない!悪いのは妖怪だ!」と責任転嫁できる上に、妖怪は実在しないので実在する誰かを傷つけることもないからである。そんな素晴らしいアイデアがあるなら、ここは今一度忘れていたアニミズムを掘り起こして先人の知恵を借りようではないか。匿名の人々による匿名の人々への罵倒は憎悪の供給システムとして非常に効率がいい。もちろんこれは何も根本的な解決策はもたらさない。そのことは肝に銘じておくべきだろう。評論家の内田樹はこのような状況を「呪いの時代」*7と呼んでいる。本当に呪いの時代だと思う。しかし今を生きる人間に必要なのは「解決策」ではなく「処世術」である。自分以外はバカの時代、この地獄のような自意識ゲームの中をサバイヴするための処世術として、僕はこの匿名罵倒システムを考案する。如何だろうか。

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

*1:『他人を見下す若者たち』 速水敏彦  講談社現代新書
 

*2:元ネタは吉岡忍による同名のエッセイ(朝日新聞2003年7月9日夕刊に掲載)
 

*3:もうちょっと本の内容に即した説明をすると、仮想的有能感とは「過去の実績や経験に基づくことなく、他者の能力の能力を低く見積もることによって生じる本物でない有能感(p.118)」というふうに説明されている。つまり「オレはスゴイんだ!根拠はないけどな!」ということである。
 

*4:DSM−IVにおいては自己愛性人格障害は次のように定義されている。

誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1. 自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2. 限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4. 過剰な賞賛を求める。
5. 特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6. 対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8. しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9. 尊大で傲慢な行勤 または態度。
 

*5:別の手段で自分を守る方法にはいろいろある。「リストカットする」とか「ヒキコモリになる」とか「自分探しの旅に出る」とか「創作活動をする」とか「何も考えずに働く」とか諸々。ちなみにこのうち「創作活動をする」みたいな社会的にスゴイとか言われるような方法にシフトすることを「昇華」という。僕は創作活動するのもリストカットするのもどっちも変わらないと思うのだけど。
 

*6:「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」の元ネタは2ちゃんねるなんだけどね
 

*7:『呪いの時代』 内田樹  新潮社