「見えない敵と戦う」という表現がある。何かに対して必死に反発しているというのは見て分かるが、一体何に対して反発しているのかがよくわからないような状態を揶揄する言葉だ。「奴ら」は社会の中に溶け込んでいて、外見は普通の人間と区別出来ないが、中身は全く異質の存在で僕らの生活を脅かそうとしている。僕らはそれに対して武器をとって戦わなければならない。とか言うと、如何にも危ない人っぽい。極端な書き方だが、今僕が行ったような話法で敵を措定し戦っているような状態を「見えない敵と戦う」と表現する。敵は確かに存在している。しかし彼らは巧妙に偽装しているので、その姿は誰にも見えない。

 彼らには様々な名前が与えられるが、ここでは例として「リア充」を取り上げたい。「リア充」という言葉の意味については詳述しないので、この言葉を知らない人は各自で調べてほしい。というのも、この「リア充」という言葉は今やバズワードの代表になっており、ここで僕が端的に「リア充」の意味を説明することは出来ないためである。一応、語義に沿えば「リアルが充実している人々」ということになるのだろうが、この言葉を知らない人間にこれだけの説明で意味が伝わるとは到底思えない。寧ろこの言葉の重要な点は語の定義的な意味ではなく、その使われ方の方である。

 「リア充」とは、主に話者のルサンチマンの対象として扱われる。あるいは自らをリア充であると自称する場合、その言葉には多分に自虐的な意味合いが込められる。つまり自らのリアルが充実していないという空虚感、疎外感を抱く人間が想定するリアルが充実している人々が「リア充」なのである。*1つまり自らの持つルサンチマンの矛先として都合のいい属性を備えている人間が「リア充」と呼ばれるのだから、当然そこで想定される「リア充」のイメージというのは人によって大きく異なってくる。例えば恋人がいないことについて劣等感を抱いている人間にとっては恋人がいる人間が、対面での人間関係が上手く築けなくて悩んでいる人間にとっては交友関係が広く社交的な人間が、異質な趣味を持っていることについて劣等感を抱いている人間にとっては一般的な趣味を持っている人間、または無趣味の人間がリア充として想起される。

 またこのようにして「リア充」の姿が決定されていくと、それに対立するアンチとしての自己イメージも定まってくる。恋人がいて充実した生活を送っているリア充に対するアンチ(=非リア)としての<私>といったようなアイデンティティである。このようなアイデンティティは、自らの劣等感を自尊心に転換するという倒錯を発生させる。「自らを非リアと言って自虐している人間は、自虐しているように見せかけて自慢をしているのだ」と非難する人がいるが、この非難は半分は正しく、半分は的外れだ。実際は自虐と自慢は不可分になっている。自らが非リアであるということに対する妙な自尊心は、リア充に対する劣等感を担保に成立しているのである。「私は○○である」ではなく「私は○○ではない」という論法によって成立するアイデンティティのことをネガティブ・アイデンティティ(否定的同一性)と呼ぶ。非リアのアイデンティティとは「私はリア充ではない」という論法によって成立する。「私は非リアである」と言っても同じことだ。何故なら「リア充」の定義の曖昧さに比べて「非リア」の定義は非常に明快で「リア充ではない人々」だからである。

 このようにネガティブな形でのアイデンティティ形成を行う限り、非リアのアイデンティティというのは常に「リア充」という存在に依存している。「リア充」がいるから「非リア」が存在する。もし「リア充」がいなくなれば「非リアとしての<私>」は存在しない。そのために「リア充」は常に存在しなければならないと同時に、私がアイデンティティを形成しやすいように徹底的に都合のいい存在でなければならない。少なくともネガティブ・アイデンティティが形成出来る程度の心地よい劣等感を与えてくれる存在でなければならない。そのためには「リア充」は徹底的に仮想的な存在でなければならない。もし、本当に目の前に「本物のリア充」が現れてしまったら、その時は劣等感を自尊心に変換しネガティブ・アイデンティティを形成することが出来なくなってしまう。「本物のリア充」を前にした時に<私>が味わうことになるのは、単なる強烈な劣等感である。

 さて、長々とリア充論を書き連ねてきたがここら辺でやっと本題に戻りたい。元々は「見えない敵」についてである。この「見えない敵」の一例として「リア充」を取り上げたのだが、僕がここで「リア充」について述べたことを、「見えない敵」と呼ばれるような存在一般に敷衍出来ると仮定すれば、「見えない敵は見えてしまってはいけない」という一般論を導き出すことが出来るだろうと思う。つまり「リア充」とは見えない存在であるからこそ、私にとって有意義に働くのであって、もし「リア充」が見えてしまったら、その瞬間に私は大きな精神的ダメージを受けることになる。そのため、見えない敵は出来る限り見えないように遠ざけておくというのは定石である。インターネット空間というのはそういった意味で非常に非リアにとって相性が良かった。(リアルが充実しているといった時に使われる意味での)リアルでの人間関係と比べて、ネットでの人間関係というのは自分と趣味嗜好、主義主張が合う人間を非常に選択的に選び、さらにその集団とは気が合わないことを悟ると早急に離脱し、また再所属することが出来る。そのため異質な存在を出来る限り排除した、まさに見えない敵を見えないようにするような空間を成立させることが出来る。

 しかし、状況が変わったのはツイッターの登場である。ツイッターの登場はとにかくあらゆる人間の存在を可視化させた。見えてはいけないものを見えるようにしてしまったのである。これにより今まで「見えない敵」だと思っていた存在が「見える」ようになってしまった。世の中には、そいつがただ単に存在しているというだけで腹の立つ存在がいる。こういう考え方の人間がいると考えただけでイライラしてくる。誰にだってそんな存在が1つか2つぐらい*2は想像出来るだろう。しかしそういった存在は実際にはどうすることも出来ない場合が多いため、現実的には目を瞑って見ないようにするしかない。しかしツイッターはそうした憎むべき敵というのを否が応にも見えるようにしてしまったのである。

 何年か前に「ツイッター鬱病の原因になるか?」という記事が書かれた*3ツイッターを止めれば鬱が治るという話を耳にすることもある。もちろんこれは単なる巷説に過ぎないが、しかしある程度の妥当性はあるように思える。世の中には自分の気に入らない人間も存在する。それはたしかに認めなければならない事実であるが、そのような状況の中でサバイヴするためには何らかの処世術というものが必要になってくる。嫌いな人間と共存していくためには、その嫌いな人間を見えないようにするというのは一つの立派な処世術の筈だ。

暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

*1:ここで使われているリアルという言葉の意味は単に対面での人間関係や身体活動を伴う生活世界といった程度の意味である
 

*2:ここで想像されるのは具体的な個人でなかったり、さらには人格を伴ってすらいない抽象的なイメージやステレオタイプも含まれるため「1人か2人」ではなく「1つか2つ」という書き方をした
 

*3:http://npn.co.jp/article/detail/54456055/